コンキチの実家は昔けっこうな地主だったらしいです。で、農地改革後、没落していき、そこそこの借金を抱えるようになりました。まあ、小作人という不労所得供給システムが突然なくなり、土地も失った地主が、改革以前の感覚のままでのほほんと過ごしていたら没落は必死と思います。
そんな訳でコンキチは小さいころ、結構貧乏で同級生に対してけっこうなコンプレックスをもっていました。そのことが災いしてか、今でもけっこう内向的な性格です(育ちの良い物怖じしない秀才がうらやましいです)。
まあ、極貧というところまで貧乏ではなかったと思うのですが、刺身は血合いの入った鰹しか食べた記憶がないし、肉はミミの面積は異様に多い豚肉がメインだった。外食は大学に入って上京するまで数えるくらいしか行ったことなかったし(大抵はドライブインのまずいラーメン屋)、ファミレスも大学に入学するまで行ったことがなかった。なので、大学に入って先輩に初めてファミレスに連れて行ってもらった時は、その場でどう振る舞えば良いのか分からず緊張したものでした。
あと、自分、中学高校と剣道をやってたんですが(六三四の剣の影響です)、剣道の防具は、中学時代は学校の備品を使ってたし、高校の時は剣道を止めた先輩からもらった安いおさがり防具を使ってました。多分、防具って6万くらいあれば、高校生としてはそれなりのが買えたと思うんだけど、買ってもらえなかったな。僕がぼろい防具つかってたのは見ればすぐ分かるんだけど、誰もそのことについて気にするそぶりもみせなかったことはありがたかったな。
大学時代は学生寮に住んでいたんだけれど、寮は貧乏人が多いので、貧乏な育ちの僕には居心地は悪くなかった。今にして思えば、寮で自分の金銭面に関するコンプレックスはずいぶん解消された気がしますね。
ところで、コンキチ(三十代半ば)の今年の予想年収は7百数十万に達すると思います。どちらかと言えば良い給料貰ってると思います。まあ、二流でも大学出たからなんとかなったって感じです。
一方、自分が小さい頃、(コンキチよりも)裕福な家の同級生とかは、(言い方は悪いけれど)うだつの上がらない生活をしている人もいる。
格差とは相対的なもので、時系列で変動する。裕福な家に生まれたというだけで小さいころに優越的に振る舞ってきたキリギリスが大人になって無力な姿に変貌していく様をみると、イヤラシいですが軽くスカッとします。だって社会って不公平なものなんだから。
(こういう育ちの悪さが最大のコンプレックスです)
コンキチの祖父は、戦時下、戦闘こそしなかったものの徴兵されて九州くらいまで行ったそうです。で、復員したら土地を取り上げられ、経営感覚が皆無なままのほほんで生活を送り借金まみれ。でもプライドだけは高く、(地元の)いい高校に入って、いい大学(帝大)に入って、高収入な職に就くことが人生の成功スキームなんだよというようなことを言われましたね。小学生くらいまでは、その言葉を素直に信じてたけど、中学あたりからさすがに、何言ってんだこいつみたいに思いましたね。だって、自分の体たらくぶりは棚に上げて成功スキームを語ってるんだから説得力が全然ない。ただ、エリート主義にはある程度の正当性を覚えましたね。端的なのが、医者と弁護士と高級官僚信仰。あと学者。彼等のステータスは基本的に高い。
両親とかから「勉強しろ」って言われたことは記憶にないけど、宿題を家に帰ってするのが嫌いで授業中に宿題をする子供だったな、自分は。まあ、不純なドライヴィング•フォースだったんだけど、それが功を奏したのか、中学時代は、超ド田舎な学校だったことも寄与してか、かなり成績がよかった。で、高校は一応地方の(没落)進学校に入学することができました。
ところで、コンキチの家は貧乏で、滑り止めの私立なんて、仮に受験して合格しても入学できない。なので、高専を滑り止めにうけようとしたら学校の先生に「高専は国立だから、滑り止めにつかうのは止めてくれ。」というようなことえを言われた。
自分は自分の耳を疑ったね(法的に問題あるの?)。金持ちは金の力にものを言わせて滑り止めをGETできる。貧乏人はそれが許されない。そして、聖職者とあがめ奉られる教師もそれを助長する。社会の不公平感を強烈に感じた一コマでしたね。未だに忘れられない。まあ、とりあえず志望校に合格できたから良かったけどね。
自分けっこうムラっけがあって、嫌いなことや苦手なことやめんどくさいことってやりません。なので、高校の成績も上位10%っていう微妙なポジション。で、ひっかかった大学が首都圏の地方二流国立大学。余談だけど、大学受験でも社会の不公平さを感じましたね。コンキチは家が貧乏だったから国立以外は無理。だから、前期•後期で2校しか受験できなかった(これまた余談だけど第一志望は落ちました)。でも、金のある奴等はそんなの関係ない。自分より成績の低い奴等でも私立の推薦にエントリーする。数多くの私大を受験する。当然、コンキチの家にそんな経済力はないから、そんなことはできない。公平•平等がモットーなんて言っている教師は、世の中にありもしない夢幻を生徒に与えるペテン師だと感じましたね(笑える)。
大学生活だって、お金持ちの子弟は下宿して一人暮らしをエンジョイできるが、貧乏人の子供は汚い寮で相部屋(4人部屋に3人生活)の共同生活を余儀なくされる(まあ、それはそれで楽しかったけれど)。でもちょっぴり有名な先生の研究室に入ることによって、就職活動はけっこう楽だったな。
あと、社会に出てから思ったんだけど、既得権の現状維持バイアスは凄まじなと感じましたね。特に、年配者(特に年配ブルーカラー)の給料に対する執着にはゾッとするものを感じたことがあります。給料はステップワイズに(生産性に関係なく)堅調に増えていくもという意味不明な哲学(?)を彼等は持っているということを学習しました。で、彼等は声がでかい。すると、声の小さい若年層の昇級スプレッドを狭めることで解決されるんだよね。退職給付制度だって、彼等(年配者)の勝ち逃げに寄与する形で収斂していく。
まあ、ここまで冗長にまとまりのない話を書いてきましたが、要は、社会っていうものは不公平のスパイラルによって構築されていくということです。っていうか、公平とか平等を定義することは難しい、というより誰にもできないだろうということ。1つの不公平を解消すると、それが原因で新たな不公平が生じたりして、問題のイタチごっこがパーペチュアルに続いていくのです。
最近巷では、格差問題なんていうのがはやっているようですが、コンキチはあまり興味ないです。っていうか、格差とは相対的なもので、かつ、明確に定義付けされて論じられていない(ような気がする)。もし仮に、所謂「格差問題」の格差が定義されていなく、雰囲気で論じられているとすると、そんなものに「解」などあるはずがない。っていうか、世の中とは不公平の積み重ねによって構築されているのだから、なんらかの格差が生じるのは当然だ。
コンキチは、格差解消よりも、格差が生じることが前提の不公平スパイラルによって構築されている社会において、自分により有利なスキームを構築していくことが重要ではないかと思います。個人的にには、公教育の比較的早い段階で、「社会は不公平である」という現実を教育するようにして欲しいな。
遅かれ早かれ、人はその現実に突き当たり、理解していくものなのだから。そういった社会の仕組みを教えないまま、子供達を社会に送り出すことは非常に危険なことだと思うのだけれども。
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