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2009年9月5日土曜日

自由の対価

久しぶりに(コンキチの大好きな)橘玲の本を読了しました。「貧乏はお金持ち──「雇われない生き方」で格差社会を逆転する」です↓

テーマはマイクロ法人。個人(サラリーマン)が法人を設立して、会社との雇用契約を業務委託契約に変え、税負担を最適化するというスキームです。

ところで、マイクロ法人というコンセプトは今回初の新しいものではなく、橘氏の前著(お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方 ― 知的人生設計入門)で既に紹介されています。amazon.co.jpには、本書は前著の「焼き直し」という口コミが散見されますが、それは浅薄というものです。

確かにマイクロ法人というコンセプトは真新しいものではないけれど、その根底に流れる(希有な)思想を、最近の金融トピックスや大衆の物語にのせて読者に分かり易く提供していることに価値があるとコンキチは思います。

橘氏の著作では、一貫して「(経済的)自由」の獲得というのが描かれていると思います。「自由」という言葉は、それ事態の意味とは裏腹にかなり不自由と思います。それは、複数(っていうか無数)の他人が共存する現代社会におて、自由の衝突が起こりえることに起因するからと思います。結果、不毛な衝突を回避するためのルールができ、自分の行使する自由に関する責任が生じる。

本書のあとがきにもある通り、自由には責任が伴うのだ。

それから、最近思ったのですが、自由は非常に不平等なものだということ。能力のある人にとって、自由は無限大(に近い)の価値を与える。他方、無能な人間にとって、自由は持て余してしまうやっかいなモノ。そんな風に思います。

自由の対義語は束縛とか統制とかかなと思うんです。で、身近な例なんですが、会社社会において、自由とは「裁量」であり、その反対は「管理」でしょう。で、社会人やってて思うのが、

「裁量」はやりがいがあるが、キツイ。結果責任が伴う。
「管理」はラクチンだが、精神と体が腐りそう。責任ははっきり言って上司に丸投げ。


有能な人ほど、裁量を獲得し、大きな成果を挙げていき、無能な人ほど管理されいるのに、全然仕事ができなく、挙げ句の果てそのできなさ加減を上司のせいにする。そういうことえしょ。

大いなる自由を満喫するためには、対価が伴うのだ。自由を享受できるだけの能力(場合によっては経済的能力)が必要となるのです。

コンキチは有能•無能で差別したりはしませんが、無能なくせにその無能っぷりを人にせいばかりにしている人は差別したです(あと、有能でも鼻持ちならない人。幸いにも、現実にそういう人にで会ったことはまだない。っていうか、真に有能な人は鷹揚で寛容だ)。


どうですか?みなさん。あなたは、自由を享受したいですか?それとも退屈に管理されたいですか?

以上、自由を享受するために、もがきにもがいている二流大出のなんちゃって研究員のつぶやきでした。

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