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2006年7月31日月曜日

中村修二という生き方(2)

先日図書館で借りた、「中村修二の反乱」という本の感想の続きです。
(注: 著者は中村さんではありません。ただの物書きです)

この著書の中で、中村氏のとある講演が取り上げられていて、
氏は、
1) 学校教育(とりわけ我が国の大学受験に係るシステム)と大学の有り様がダメダメ
2) 日本の社会の至る所に蔓延している政治力に辟易。
3) 研究者の待遇もダメダメ。

という主張をしています。

氏の専門分野は応用物理学らしいですが、コンキチの(一応)専門である有機化学でも同様のことに心当たりがあります。以下、コンキチが企業の研究員となるまでの道のりを中村氏の主張と、なんとなく、オーバーラップさせながら展開していきたいと思います。

1) 教育
学校教育には、受ける側、カリキュラム、教える側(教師)のそれぞれに大きな問題があるとコンキチはみています。

a) 受ける側の問題:
「我が子にはよりSteadyな道を歩ませたいという親のエゴ」と、「いい大学(旧帝大)→エリート(生活は安泰)」といった神話とが相まって、いい大学に入ることが最大の目標になってしまったことに学生の質の低下に係る問題があると思いますね。所謂学歴至上主義でしょうか?この流れが受験戦争やお受験なんていう不毛なモノを生み出してしまったのだと思います。これで、大学に入学することが目的化しちゃって、入学後のキャンパスライフは遊び惚けちゃうんですよね。受験で燃えつきちゃうんですよ、多分。で、卒業できる程度の必要最低限の努力しかしない。その結果学生のレベルが下る。でも。ある程度卒業させてやらないと後はつかえるし、学校の評判にも影響するので、卒業の審査を甘くして大体は卒業させてやる。こんな感じで、なんの専門性も持たない人材が世に輩出されていくのです。この現象は特に文系に多いように見受けられます(教育学部は教員免許取得したいというドライビング・フォースがあるのでまだマシです)。コンキチが在籍していた大学では、経済学部と教養学部があったのですが、それぞれ「ヒマ経」、「無教養学部」と揶揄されていました。
あと、受験戦争熱は、特に無学な親にこの傾向が強いとコンキチは感じています。今でこそ大学全入時代なんて言われてますが(くだらない私大が結構ありますが)、コンキチの親の時代なんかは、まだまだ大卒者は少なく、自分が苦労しているのは学が無いからだという、幻想に近い学歴コンプレックスがあるんだろうと思います。話を聞いてると、大学を出てない人(夫婦)は、子供の教育に熱心ですから。単純な費用対効果を考えれば、大学への過剰な期待は禁物だと思うのですがね。
純粋な中村氏は、こういった点については言及していませんでしたが、けっこう由々しい問題だと思います。

b) カリキュラムの問題:
我が国の高校、大学のカリキュラム設定はかなり最悪です。なぜなら、社会生活に必須という訳でもなく、自分が全く興味のない科目でも、ある程度履修しなければ先に進めない仕組みになっているからです。例えば、高校で習う古文・漢文。コンキチは古文&漢文の勉強したことはZEROでした(中間・期末テストは教科書ガイドを丸暗記していました)。  あと、理科もくせ者です。高校理科は「物理」「化学」「生物」「地学」から構成されていますが、それぞれの関連性は必ずしも高くはありません(特に地学は皆無)。にも関わらず、大学受験で「理系」の学部を狙う場合は、複数の理科科目を選択しなければならない学校が多々あります(少なくともコンキチが受験生の頃はそうでした)。ちなみにコンキチは応用化学科卒ですが、「物理」「生物」「地学」はさっぱり分かりません(こんなのばかりだから大学生の学力低下が問題になっているのかもしれませんが)。そして極めつけは社会ですね。特に歴史なんかは、メジャーな出来事の名称、年号、偏った歴史観という愚にもつかないことを教えられ、あまり有益とは言い難いです(はっきり言って「花の慶次」を読んだ方が為になります)。
また、逆もありきで、経済学部で数学が受験科目に無いのも気にかかります。だって、経済に数学は必須でしょ? (しかも、数学は実社会で役に立つ数少ない科目ですし)。
ここまでは、大学以前の話ですが、大学のカリキュラムもなかなかの腐敗っぷりです。まず、一般教養とうのがクセものです。自分の進んだ学部・学科の専門外(全然関係ない)の授業をある一定数以上を履修しなければならないという制度です。まあ、専門だけに偏らす、より視野を広げましょうという感じのお題目で、そのような制度が存在するのだと思うのですが、そんなのはおべんちゃらですね。中村氏も、大学に入れば自分の好きなことがおもいきりできると思っていたのに騙された、とこの制度には辟易していたようです。理想を掲げるのは勝手ですが、ひとりよがりなお題目を強要するのはよくないと思いますね(別に自由意志で専門外の科目を履修するのは良いと思いますが)。自分に全く興味のないことを強要されることとで、ある一分野で尖った才能を持つ人材がやる気がそがれるようなことがあれば、それは重大な機会損失ですよ。そもそも、より多くの知識を広く吸収しようなんていう高邁な精神を持った学生はそんなにいないと思うし(きっと)。

c) 教える側(教師)の問題:
理科離れをなくす法(化学篇)でも述べましたが、(特に)小学校や中学校の先生は皆文系です(かなり独断と偏見がはいってます)。ということは、数学と理科が嫌いな(できない)人間が、チビッコに数学と理科を教えることになります。あなたは、自分が嫌いなものの楽しさを他人に教授することができますか?このことは、我が国の科学技術戦略上の重要な欠陥であるとコンキチは切に思います。さらに、あなたの子息・子女を教えている担任が、数学嫌いだったら目もあてられません。よく数学は四則演算さえできれば社会に出て不自由しない。四則演算以外は実社会に必要ないという発言を耳にしたことがありますが、それは全くのウソです。少なくとも数列はファイナンス(借金)の初歩の初歩で必ず必要になります。最近巷では、住宅ローンの借り換えなんかが流行っていますが、excel等のSpreadsheetと簡単な数列の知識さえあれば、借り換えによる効果を簡単にシミュレートできます(但し、手数料等は別途確認が必要でうが)。最もファンダメンタルな学問であるmathematicsが苦手だなんていう教師予備軍には免許を与えないようにしまければ、青少年の未来は拓けません。

2) 政治
社内政治に関しては、ビジネス書や島耕作なんかに譲るとして、学術の政治について書きたいと思います。
中村氏が国内のJournalに論文を投稿しようとした際、ずっとはねられ続けたそうです。というのも、レフリーがそのスジの所謂"大家"だったらしく、中村氏が論文中で大家の論文をリファレンス(参考文献)として参照していなかったので"大家"がへそを曲げてRejectし続けたということらしいです。アメリカ至上主義という訳では決してありませんが、我が国にこういった非常に稚拙な事例が我が国に存在することは残念です。しかも、これと似たようなことは、他の学術分野にも、程度の差こそあれ存在します。
コンキチが身を置く有機(合成)化学の世界では、二大勢力があります(少なくともコンキチはそう思っている)。一方はノーベル化学賞を受賞した 野依良治先生率いるの「野依派」。もう一方は日本でいち早くタキソールの全合成に成功した向山光昭先生の「向山派」。ちなみにコンキチは、一応「向山派」です(研究内容はかなり亜流といわれていましたが)。で、コンキチが今就社している会社に「向山派」の同期(こちらは正統派です)がいるのですが、彼の出身研究室では、雑誌会である学生が野依先生の論文を発表したら、超怒られたという話を聞きました。コンキチの研究室ではそこまで露骨なことはありませんでしたが、コンキチの指導教授は野依先生のことをあまり快く思っていませんでした。
このように、あらゆるフィールドで村意識を発揮するのは、日本人の特性であり、我が国のお国柄といってしまえば簡単ですが、物事の本質からかけ離れた政治に労力を消費するのは非建設的であるばかりで、研究員のモチベーションを低下させることにしか役立ちません。

3) 「研究」の価値
よく「賃金は労働の対価」という言葉を耳にします。で、コンキチが勝手に思っているだけかもしれませんが、「研究員の労働とは知価を創造すること」であるのに対して、「世間一般の労働とは(ルーチンワークに費やした)労働時間」であるように感じます。まあ、研究の価値なんて愚鈍な一介のマネジャーなんかには評価できないし、こと企業に関しては、研究の成果は、その成果を基盤として造った製品が利益を出すことによってはじめて認識されるのでなかなかリアルタイムに報いることは難しくなります。あと、分業化が進んでいる昨今、研究→製品化プロセス構築→生産→販売といったパスを経るうちに、元の研究の成果のインパクトは希薄化してしまいます(つまり、あんた一人で利益をあげたわけではないでしょということ)。
あと、如何に優秀な研究員といえども、種々の要因によって、目覚しい成果を挙げることなく研究員生活を終えてしまうというリスクが伴います。「じゃ、あんたはあんまりぱっとした成果を挙げれなかったから給料もちょとだけしか支給しないね」というのでは、人生安心して生活できません。
以上、研究成果の評価が難しいことに加えて、研究成果と給料をあまりにリンクさせすぎると、成果ZEROだったときは給料が激減しちゃって生活できないよぉという不安が相まって、「じゃあ給料は安定支給するから、その額はほどほどにね」ということになったんじゃないかとコンキチは考えています(っていうかそこまで複雑じゃなく、ただなんとなくっていうのが本当のところかもしれませんが)。だからといって、コンキチの勤務している会社のように、我が国の最高学府を出ても、歳が同じなら、給料もだいたい一緒というのでは、実際モチベーションは上がりませんがね。

以上はコンキチの個人的な体験と偏見に基づいたものですが、中村氏も上記みたいなことに辟易してアメリカにぴゅーんって行っちゃったみたいです。

世界でも希有な才能を持つ一人の科学者が、日本独特の慣習に基づくしがらみを断ち切って、新天地(アメリカ)で新たな研究に取り組という人生のスタイルは、清々しささえ感じます。一人の力(自分の才能)を信じ(実際、中村氏の場合は実力も裏打ちされていますが)、飄々と生きていくという姿は、凡人には眩しくい映り、自分も斯くありたいと痛切に思います。はっきり言ってカッコいいですよ。しかしながら、そういった生き方を許されるのは、才に明るく、不断の努力を怠らない、ついでにちょっと運がいい人間に限られます(偏見ですかね?)。

某二流大出の二流研究員で、やる気も下降曲線で、研究よりもスコッチが好きというコンキチには望むべくもありません。

でもちょっとここで考えてみて下さい。

我が国「日本」は、世界第2位の経済大国にして、治安も優れ、伝統があり、豊かな四季を持ち、食を文化と語り、ロジスティクスも発達している世界で最も豊かな国です。

そんな恵まれた国に生まれた我々日本人が、

言葉の壁を越え、不味いメシに我慢し、不慣れな習慣や慣習に慣れていかなければならないという苦行を乗り越えてまで海を渡るモチベーションが湧いてきますか?

まあ、普通の人はそんなリスクを犯さないでしょう。当然、日本酒が世界で一番ウマい酒だと信じ、日本人は肉なんか喰わないで、世界で一番ウマい魚だけた食べていればいいと(かなり本気で)思っているコンキチは愛する日本を離れる気は皆無なのです。

ということで提案です。
コンキチのようにやる気を無くし、モチベーションが低下しまくった、そこそこの専門性を持った研究員は、
1) 会社を自分の知的好奇心を満たす場として活用し、
2) サラリーマンの不労所得である有給休暇を力強く活用し、
3) 必要最低限の労力のみを仕事に費やし、
4) 精神を豊かにする文化的なものと親しみ
人生を謳歌する施策の構築に励みましょう。

コンキチは
酒(全般)、読書(ミステリ)、証券取引(知的ギャンブル)、育児(我が子は可愛いんです)、下駄(ジャパニーズ・トラディショナル・シューズ)、腕時計(趣味です)を楽しみ、毎月1日(映画の日)は会社を休んで劇場で映画を観ることにしています(1,000円で観れます)。

以上、本日も他愛のない二流大出のなんちゃって研究員の戯言でした。

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