2006年7月31日月曜日

中村修二という生き方(2)

先日図書館で借りた、「中村修二の反乱」という本の感想の続きです。
(注: 著者は中村さんではありません。ただの物書きです)

この著書の中で、中村氏のとある講演が取り上げられていて、
氏は、
1) 学校教育(とりわけ我が国の大学受験に係るシステム)と大学の有り様がダメダメ
2) 日本の社会の至る所に蔓延している政治力に辟易。
3) 研究者の待遇もダメダメ。

という主張をしています。

氏の専門分野は応用物理学らしいですが、コンキチの(一応)専門である有機化学でも同様のことに心当たりがあります。以下、コンキチが企業の研究員となるまでの道のりを中村氏の主張と、なんとなく、オーバーラップさせながら展開していきたいと思います。

1) 教育
学校教育には、受ける側、カリキュラム、教える側(教師)のそれぞれに大きな問題があるとコンキチはみています。

a) 受ける側の問題:
「我が子にはよりSteadyな道を歩ませたいという親のエゴ」と、「いい大学(旧帝大)→エリート(生活は安泰)」といった神話とが相まって、いい大学に入ることが最大の目標になってしまったことに学生の質の低下に係る問題があると思いますね。所謂学歴至上主義でしょうか?この流れが受験戦争やお受験なんていう不毛なモノを生み出してしまったのだと思います。これで、大学に入学することが目的化しちゃって、入学後のキャンパスライフは遊び惚けちゃうんですよね。受験で燃えつきちゃうんですよ、多分。で、卒業できる程度の必要最低限の努力しかしない。その結果学生のレベルが下る。でも。ある程度卒業させてやらないと後はつかえるし、学校の評判にも影響するので、卒業の審査を甘くして大体は卒業させてやる。こんな感じで、なんの専門性も持たない人材が世に輩出されていくのです。この現象は特に文系に多いように見受けられます(教育学部は教員免許取得したいというドライビング・フォースがあるのでまだマシです)。コンキチが在籍していた大学では、経済学部と教養学部があったのですが、それぞれ「ヒマ経」、「無教養学部」と揶揄されていました。
あと、受験戦争熱は、特に無学な親にこの傾向が強いとコンキチは感じています。今でこそ大学全入時代なんて言われてますが(くだらない私大が結構ありますが)、コンキチの親の時代なんかは、まだまだ大卒者は少なく、自分が苦労しているのは学が無いからだという、幻想に近い学歴コンプレックスがあるんだろうと思います。話を聞いてると、大学を出てない人(夫婦)は、子供の教育に熱心ですから。単純な費用対効果を考えれば、大学への過剰な期待は禁物だと思うのですがね。
純粋な中村氏は、こういった点については言及していませんでしたが、けっこう由々しい問題だと思います。

b) カリキュラムの問題:
我が国の高校、大学のカリキュラム設定はかなり最悪です。なぜなら、社会生活に必須という訳でもなく、自分が全く興味のない科目でも、ある程度履修しなければ先に進めない仕組みになっているからです。例えば、高校で習う古文・漢文。コンキチは古文&漢文の勉強したことはZEROでした(中間・期末テストは教科書ガイドを丸暗記していました)。  あと、理科もくせ者です。高校理科は「物理」「化学」「生物」「地学」から構成されていますが、それぞれの関連性は必ずしも高くはありません(特に地学は皆無)。にも関わらず、大学受験で「理系」の学部を狙う場合は、複数の理科科目を選択しなければならない学校が多々あります(少なくともコンキチが受験生の頃はそうでした)。ちなみにコンキチは応用化学科卒ですが、「物理」「生物」「地学」はさっぱり分かりません(こんなのばかりだから大学生の学力低下が問題になっているのかもしれませんが)。そして極めつけは社会ですね。特に歴史なんかは、メジャーな出来事の名称、年号、偏った歴史観という愚にもつかないことを教えられ、あまり有益とは言い難いです(はっきり言って「花の慶次」を読んだ方が為になります)。
また、逆もありきで、経済学部で数学が受験科目に無いのも気にかかります。だって、経済に数学は必須でしょ? (しかも、数学は実社会で役に立つ数少ない科目ですし)。
ここまでは、大学以前の話ですが、大学のカリキュラムもなかなかの腐敗っぷりです。まず、一般教養とうのがクセものです。自分の進んだ学部・学科の専門外(全然関係ない)の授業をある一定数以上を履修しなければならないという制度です。まあ、専門だけに偏らす、より視野を広げましょうという感じのお題目で、そのような制度が存在するのだと思うのですが、そんなのはおべんちゃらですね。中村氏も、大学に入れば自分の好きなことがおもいきりできると思っていたのに騙された、とこの制度には辟易していたようです。理想を掲げるのは勝手ですが、ひとりよがりなお題目を強要するのはよくないと思いますね(別に自由意志で専門外の科目を履修するのは良いと思いますが)。自分に全く興味のないことを強要されることとで、ある一分野で尖った才能を持つ人材がやる気がそがれるようなことがあれば、それは重大な機会損失ですよ。そもそも、より多くの知識を広く吸収しようなんていう高邁な精神を持った学生はそんなにいないと思うし(きっと)。

c) 教える側(教師)の問題:
理科離れをなくす法(化学篇)でも述べましたが、(特に)小学校や中学校の先生は皆文系です(かなり独断と偏見がはいってます)。ということは、数学と理科が嫌いな(できない)人間が、チビッコに数学と理科を教えることになります。あなたは、自分が嫌いなものの楽しさを他人に教授することができますか?このことは、我が国の科学技術戦略上の重要な欠陥であるとコンキチは切に思います。さらに、あなたの子息・子女を教えている担任が、数学嫌いだったら目もあてられません。よく数学は四則演算さえできれば社会に出て不自由しない。四則演算以外は実社会に必要ないという発言を耳にしたことがありますが、それは全くのウソです。少なくとも数列はファイナンス(借金)の初歩の初歩で必ず必要になります。最近巷では、住宅ローンの借り換えなんかが流行っていますが、excel等のSpreadsheetと簡単な数列の知識さえあれば、借り換えによる効果を簡単にシミュレートできます(但し、手数料等は別途確認が必要でうが)。最もファンダメンタルな学問であるmathematicsが苦手だなんていう教師予備軍には免許を与えないようにしまければ、青少年の未来は拓けません。

2) 政治
社内政治に関しては、ビジネス書や島耕作なんかに譲るとして、学術の政治について書きたいと思います。
中村氏が国内のJournalに論文を投稿しようとした際、ずっとはねられ続けたそうです。というのも、レフリーがそのスジの所謂"大家"だったらしく、中村氏が論文中で大家の論文をリファレンス(参考文献)として参照していなかったので"大家"がへそを曲げてRejectし続けたということらしいです。アメリカ至上主義という訳では決してありませんが、我が国にこういった非常に稚拙な事例が我が国に存在することは残念です。しかも、これと似たようなことは、他の学術分野にも、程度の差こそあれ存在します。
コンキチが身を置く有機(合成)化学の世界では、二大勢力があります(少なくともコンキチはそう思っている)。一方はノーベル化学賞を受賞した 野依良治先生率いるの「野依派」。もう一方は日本でいち早くタキソールの全合成に成功した向山光昭先生の「向山派」。ちなみにコンキチは、一応「向山派」です(研究内容はかなり亜流といわれていましたが)。で、コンキチが今就社している会社に「向山派」の同期(こちらは正統派です)がいるのですが、彼の出身研究室では、雑誌会である学生が野依先生の論文を発表したら、超怒られたという話を聞きました。コンキチの研究室ではそこまで露骨なことはありませんでしたが、コンキチの指導教授は野依先生のことをあまり快く思っていませんでした。
このように、あらゆるフィールドで村意識を発揮するのは、日本人の特性であり、我が国のお国柄といってしまえば簡単ですが、物事の本質からかけ離れた政治に労力を消費するのは非建設的であるばかりで、研究員のモチベーションを低下させることにしか役立ちません。

3) 「研究」の価値
よく「賃金は労働の対価」という言葉を耳にします。で、コンキチが勝手に思っているだけかもしれませんが、「研究員の労働とは知価を創造すること」であるのに対して、「世間一般の労働とは(ルーチンワークに費やした)労働時間」であるように感じます。まあ、研究の価値なんて愚鈍な一介のマネジャーなんかには評価できないし、こと企業に関しては、研究の成果は、その成果を基盤として造った製品が利益を出すことによってはじめて認識されるのでなかなかリアルタイムに報いることは難しくなります。あと、分業化が進んでいる昨今、研究→製品化プロセス構築→生産→販売といったパスを経るうちに、元の研究の成果のインパクトは希薄化してしまいます(つまり、あんた一人で利益をあげたわけではないでしょということ)。
あと、如何に優秀な研究員といえども、種々の要因によって、目覚しい成果を挙げることなく研究員生活を終えてしまうというリスクが伴います。「じゃ、あんたはあんまりぱっとした成果を挙げれなかったから給料もちょとだけしか支給しないね」というのでは、人生安心して生活できません。
以上、研究成果の評価が難しいことに加えて、研究成果と給料をあまりにリンクさせすぎると、成果ZEROだったときは給料が激減しちゃって生活できないよぉという不安が相まって、「じゃあ給料は安定支給するから、その額はほどほどにね」ということになったんじゃないかとコンキチは考えています(っていうかそこまで複雑じゃなく、ただなんとなくっていうのが本当のところかもしれませんが)。だからといって、コンキチの勤務している会社のように、我が国の最高学府を出ても、歳が同じなら、給料もだいたい一緒というのでは、実際モチベーションは上がりませんがね。

以上はコンキチの個人的な体験と偏見に基づいたものですが、中村氏も上記みたいなことに辟易してアメリカにぴゅーんって行っちゃったみたいです。

世界でも希有な才能を持つ一人の科学者が、日本独特の慣習に基づくしがらみを断ち切って、新天地(アメリカ)で新たな研究に取り組という人生のスタイルは、清々しささえ感じます。一人の力(自分の才能)を信じ(実際、中村氏の場合は実力も裏打ちされていますが)、飄々と生きていくという姿は、凡人には眩しくい映り、自分も斯くありたいと痛切に思います。はっきり言ってカッコいいですよ。しかしながら、そういった生き方を許されるのは、才に明るく、不断の努力を怠らない、ついでにちょっと運がいい人間に限られます(偏見ですかね?)。

某二流大出の二流研究員で、やる気も下降曲線で、研究よりもスコッチが好きというコンキチには望むべくもありません。

でもちょっとここで考えてみて下さい。

我が国「日本」は、世界第2位の経済大国にして、治安も優れ、伝統があり、豊かな四季を持ち、食を文化と語り、ロジスティクスも発達している世界で最も豊かな国です。

そんな恵まれた国に生まれた我々日本人が、

言葉の壁を越え、不味いメシに我慢し、不慣れな習慣や慣習に慣れていかなければならないという苦行を乗り越えてまで海を渡るモチベーションが湧いてきますか?

まあ、普通の人はそんなリスクを犯さないでしょう。当然、日本酒が世界で一番ウマい酒だと信じ、日本人は肉なんか喰わないで、世界で一番ウマい魚だけた食べていればいいと(かなり本気で)思っているコンキチは愛する日本を離れる気は皆無なのです。

ということで提案です。
コンキチのようにやる気を無くし、モチベーションが低下しまくった、そこそこの専門性を持った研究員は、
1) 会社を自分の知的好奇心を満たす場として活用し、
2) サラリーマンの不労所得である有給休暇を力強く活用し、
3) 必要最低限の労力のみを仕事に費やし、
4) 精神を豊かにする文化的なものと親しみ
人生を謳歌する施策の構築に励みましょう。

コンキチは
酒(全般)、読書(ミステリ)、証券取引(知的ギャンブル)、育児(我が子は可愛いんです)、下駄(ジャパニーズ・トラディショナル・シューズ)、腕時計(趣味です)を楽しみ、毎月1日(映画の日)は会社を休んで劇場で映画を観ることにしています(1,000円で観れます)。

以上、本日も他愛のない二流大出のなんちゃって研究員の戯言でした。

2006年7月22日土曜日

中村修二という生き方(1)

先日図書館にコンキチの愛読雑誌であるプレジデントを借りにいいった折、


中村修二の反乱」という本が偶然コンキチの目に飛び込んできました。

中村修二・・・高光度青色LEDを世に送り出した希代の科学者

分野も全く違い、彼は天才、コンキチは
盆栽
凡才ではありますが、希有な研究者を題材にした書籍に、同じ自然科学に携わるものとして、一抹の興味を持つことを禁じざるを得ません。

ということで、借りちゃいました。
で、読んでみた感想はというと、
1) 中村修二の講演内容が少々
2) 大半は著者の感想
といった内容で、ダメダメな本ですね。

中村修二の講演内容は、彼が直接語った事柄で、何かをやり遂げた者が持つ、含蓄や言葉の重さ、真理が感じられてとてもGOODでした。
でもそれはこの本のほんの一部分で、大半は、単なる物書きの感想文といった感じにしかコンキチは受け取れませんでした。

ということで、自腹を切って買う価値無し!図書館等で借りたり、アマゾンマーケットプレイスやBOOK OFFで格安で購入するのがベターでしょう。

でも、中村修二の語った部分だけま読む価値があります。

そして、中村氏の主な主張は

1) 学校教育、とりわけ我が国の大学受験に係るシステムと大学の有り様を批判しています。
2) 日本の社会の至る所に蔓延している政治力に辟易しているようです。
3) また、研究者の待遇にも言及しています。

なんちゃって研究員のコンキチも彼の主張にはある種のシンパシーを感じました。

実感として、大学受験が目的化していることはかなり覆すことは難しいように思うし(だから合格すると勉強しないで遊んじゃうんだよね)、象牙の塔や実社会にも学閥や横並び意識や必要以上に人を立てるということが間々あるように思いますし、我が国の最高学府を出た研究員もそこいらのブルーカラーやホワイトカラーと給料一緒ですから。モチベーションが上がりませんよ、はっきりいって。

あと、中村修二の本を読むんだったら、氏自らが著した



の方が断然オススメだと思います。

今日は疲れたので、後日続きを綴りたいと思います。

2006年7月16日日曜日

理科離れをなくす法(化学篇)

昨今我が国では、青少年をはじめとする国民の「科学技術離れ」「理科離れ」が指摘されている
(文部科学省Web Siteより)

ようです。

コンキチは、個人的には、「理科離れ」なるものは憂慮に値するとは考えていません。だって、量より質が大事ですから。「理科がお気に入り」程度の使えない人材を多数世に輩出したところで、科学技術立国なんて夢のまた夢ですよ。

コンキチが就社している企業は所謂「化学」に分類されるセクターに属する企業なので、化学系研究員(理系)が沢山います。しかも、使えないのがいっぱい(はっきりいってコンキチも使えません)。だから先進的な1流の研究はおろか、2流の研究(普通の研究)さえもできていません。R&DはPDCAサイクルを回すことが重要だと思うのですが、コンキチの所属する会社ではDO! DO!!DO!!!のみキック(とりあえず実験しろっていうスタンスです)で結果オーライ(3流の研究)です。

あと、化学系の学部や大学院(修士)を出ても、フリーターや異業種で働いているヤツ(大学の同期とか)も結構います。こういった現象は、インプットの数に対してアウトプットの数が足りてないことの証左ではないでしょうか?

さて、身も蓋もない話はこれくらいにして、以下どうすれば「理科離れ」を解消することができるかについて考えてみましょう。

ところでそもそも論なのですが、「理科離れ」は実際に進行しているのでしょうか?コンキチは現在31歳ですが、コンキチが若いころも文系優勢な学校環境だったように思います。「理系」「文系」が顕在化するのは(少なくともコンキチの世代は)高校です。で、コンキチが高校生だったころ、1学年は全部で6クラスあって、その内「文系」4クラス、「理系」2クラスで力強く文系優勢な環境でした。このことから、「理科離れ」が進行しているのではなくて、元来理科系より文科系の方が優勢で、今も変わらず続いているのではないかというのがコンキチの独断と偏見による意見です。

「理科(自然科学)離れ」の進行の真偽はあやしいとコンキチは睨んでいますが、今回はおいておきます。とりあえず理科系は少数派であるという(多分)事実は存在しているようなので、どうして人々は理科(自然科学)に興味(好奇心)をあまり示さないのかということについて考えてみたいと思います。以下、思いつくままにその要因らしきものをコンキチの独断と偏見により二、三挙げてみたいと思います。

まず第1に思い浮かぶのが、学校の先生は皆「文系」だからダメだということです。チビッコに理科(自然科学)の楽しさを伝え、理科に対する興味を喚起することが、将来の理系人口を増やすために有効であるというなら、教師(特に初等教育に携わる)は、チビッコに理系の楽しさを享受できる絶対的な役割を果たすことになります。となると絶望的な現実が目の前に現れます。それは教員養成課程なんていうのは理系の人間が行くところではないからです。そこは、自然科学とは無縁な or 興味のない or ついていけない文系の園なのですよ。つまり、理系の楽しさを理解できない文系教員は、理系の魅力をチビッコに伝導することはできないのです。
修士号以上の学位を持つ教師を増やすなんていう策を提言する輩もいるようですが、教育学部の修士なん所詮文系なんだから意味ありません。

次に理科に必要な論理思考は面倒くさいというのも人々を理系から遠ざける要因であるようにコンキチは思います。
コンキチが社会に出てから(会社に就社してから)感じたことですが、社会は論理思考よりも感情を優先するきらいがあるようです。典型的な理系思考である論理思考は、データを集め、読み、再構築し、新たな着想を創造しなければならず、ちょっと面倒です。はっきりいって、感情で適当に判断して意思決定する方が、時間もかからず楽チンです(その正否は保証されませんがね)。水が高きより低きに流れる様に、人も面倒くさいことから楽チンなことに逃れようとするのが大勢でしょう。となると、論理思考を要求される理系を人々が敬遠するのは自然なことなのかもしれません。

我が国の行政は、「科学技術・理科大好きプラン」と称して、効果のあやしい施策を行っているようです。コンキチはこんなうっとおしい企画はさっさと止めた方がいいと思いますが、政府も、世間で騒がれている「理科離れ」に対して、何らかの施策を施しているところをアピールしなければ、世間の風当たりが強くなるのでいたしかたないのかもしれません。
そもそも、「理科に対して興味を持たせる」という発想がダメダメだと思いますね。文部科学省のWeb Siteでは、

「科学技術に対する志向を高めていくことが重要」
「理科好きな児童生徒を増やすため」
「科学技術・理科に対する関心を高め」

なんていうことが謳うわれていますが、

「科学技術に対する志向が(自発的に)高まっていくこがと重要」
「理科好きな児童生徒が(自発的に)増える」
「科学技術・理科に対する関心が(自発的に)高まる」

ことが重要なのだとコンキチは思います。
志向・興味・関心を高める(増やす)ためにはどういう施策をぶつかというのではなく、
志向・興味・関心が高まる(増える)ような環境をどう用意すればいいか
なのだと思うのですが.....

あまりウマく言えてないですが、人からあーだこーだ言われてやらされるのではなく、自らの自由意志に基づいて興味を持たなければ意味がないと思うのです。他人から与えられたかりそめの意識の高揚は、持続性があまり期待できず、長期的にみて消失してしまうのがオチではないでしょうか?人からヤレっていわれたことを、あなたは長く続けられますか?

さて、以上まとめると、
1) 「文系人口 > 理系人口」これを「文系人口=理系人口」くらいにしたい(?)
2) 学校の先生は皆「文系」だからダメダメ
3) 理系は論理思考が必要。でも面倒くさい
4) 自発的に理科に興味を持つことが大事

とりあえず、理系人口を増やしたいけど、学校の教員に期待するのは無理そうで、社会も理系思考を素直には受け入れ難い状況。自発的に理科(自然科学)に興味を持たせるにはどうしたらいいの?っていうところでしょうか。

こうなると、解決策は
チビッコが自発的に手に取ってみたくなるような分かりやすく、興味深い、良質な書籍に頼るしかないとコンキチは考えます(「わたしは本を読まないけどどうしてくれるの?」なんていう戯けた人は本質的理系に向いてないと思うので却下します)。

こと化学に限って言えば、

日本化学会化学・意表を突かれる身近な疑問

こいつ↑を小学校の適当な時期に一人一冊配ってやれば、政府の施策なんかよりもよっぽど多くのチビッコ達が理科に食いついてくるに違いありません(この本に食いついてこないチビッコは、本質的に理系には向いてないと思うので、そういう児童には心置きなく文系に進んでもらいます)。

さて上記本のコンテンツは
1) 台所の疑問
2) 食卓の疑問
3) 身近な道具の疑問
4) 部屋まわりの疑問
5) 街の疑問
6) 自然界の疑問
7) からだの疑問
8) 身づくろいの疑問
9) 外食・おやつの疑問
10) あやしい話への疑問
という10章からなり、息子(推定小学生)の疑問にお父さんが答えるとういう形式で話が進んで行きます。
具体的には、

「コンビーフの缶詰は、なぜあんな形なの?」(台所の疑問)
「黒鉛筆は消しゴムですぐ消せるのに、色鉛筆はなぜ消しゴムで消しにくいの?」(身近な道具の疑問)
「昆布はなんでダシが海水に溶け出さないの?」(食卓の疑問)
「お酒を飲むとなんでラーメンを食べたくなるの?」(外食・おやつの疑問)

といったチビッコが疑問に思いそうなトピックスに対して、お父さんがScientificにバシッと回答していきます。一見子供っぽいお題ではありますが、けっこう本格派です。
はっきりいって、

大人も買いです!

2001年ノーベル化学賞受賞の野依良治先生も(多分)激賞です。
(帯にコメント書いてたし。2002年度の日本化学会会長だし。この本は日本化学会編だし。)

少しでも興味をもった方は、まあ騙されたと思って買ってみて下さい(ちなみに上記画像をClickして購入していただけると、コンキチはAmazon.co.jpからお駄賃をGETすることができます)。あなたの子息・子女は明日から理系になること間違いなしです(結果は保証いたしかねますが)。

以上、「理系の文系」と揶揄される化学系研究員のコンキチの讒言でした。


2006年7月12日水曜日

研究員のプレゼンテーション

先日、久しぶりに(部内)会議がありました。

参加人数/ 28人
所用時間/ 2.5 hr
発表者/ 6人(グループチーフ)
質問者/ 1名(部門長)
ギャラリー/ 21人(=28-6-1)

内容は、各グループのチーフが中期の研究開発ロードマップを部門長にお話するというもの。従業員(正社員)数285人の企業の会議としてはかなりBIGな規模です。まあ、大勢のギャラリー(下々の者)の前で、グループリーダー(家臣)がお殿様(部門長)に、計画のお伺いを立てるといいった儀式(Ceremony)ですな。大名行列にも似た時代錯誤の自慰行為です。だって、ただの報告会ですから。資料を部門長にメールで送ってfinishで何の問題もないと思いますよ。

しかも、
1) 会議の内容は事前に知らされてない
やる気あるの?

2) レジメはチーフと部門長&副部門長のみで、一般研究員(下々の者)は無し。
僕たちってこの場に必要ですか?

3) プレゼンはプロジェクターを使い何故かエクセルで。エクセルのセルに記入された文字は細かくて見えません。阿部ちゃんがやってる参天製薬の目薬のCM並みです。しかも文字だけ。
いやがらせですか?

ついでに、薄暗くて、いい感じにエアコンが効いていて、とろけそうなくらい眠くなりました。一応コンキチは読書にいそしんでいましたが.....

それにつけても今回のプレゼンは、コンキチ史上最低でしたよ。
プレゼンの基本は

More Simple!
More Visualize!!
More Graphical!!!

だと思っているコンキチには、受け入れ難いものでした。しかも、クリエーティブなセンスが求められる研究員が、エクセルのセルの虫眼鏡で見ないと分かんないような文字を棒読みでは芸が無さ過ぎです。

でも、コンキチはこんな社内の無駄なイベントが大好きです。だって、目的は自慰なんだから、下々の雑魚キャラ研究員は"その場"に存在していさえすればいいんですから!
ある意味自由時間です。

若干薄暗くて目が悪くなりそうですが、読書にはもってこいですよ!!!!!

ちなみにコンキチが件の会議で読んでいた本は、

統計でウソをつく法―数式を使わない統計学入門」でした。

下手なプレゼンよりよっぽどためになります。
会議ときたら暇つぶしグッツ(おすすめは本)は必ず携帯していきましょう。有意義な時間を過ごせること
「間違いない」
です。

2006年7月9日日曜日

全国安全週間という儀式

7月3日から7月7日は全国安全週間でした。全国安全週間は、企業の自主的な労働災害防止活動の推進と、安全意識の高揚と安全活動の定着を図ることを目的として展開される、1年のうちに1週間(より正確には5日間)だけ実施される安全意識高揚週間です。

コンキチが在籍する事業所でも毎年やっています。具体的にどういうことをするかというと、

1) ラジオ体操を始業前と15:00のに2回やる(通常は始業前の1回)。
→何故年に5日間だけ2回やるの?ラジオ体操の有意性はコンキチも認めるところなんですが、5日間だけ2回やる意味はパフォーマンス以外にあるの?因みに、研究部門の副部門長は、始業前の日々のラジオ体操さえもしないときもあるよ。因みにコンキチは小学生の時分、児童会会長をやっていたことがあって、朝のラジオ体操を(校長先生とかが校庭で挨拶するときとかに上る)台の上でやっていたことがありました。だから、ラジオ体操(第一)には一家言あるのですが、皆やる気なさそうにやってますよ、体操を。足の曲げと開きが全然ダメですね。

2) 週初に各職場における安全目標を設定し、最終日にcheck。
→主に整理整頓系の目標が設定されるのですが、最終日に軽く掃除&片付けをやって終わりです。目標を最もよく達成した職場は、なんか商品が貰えます。イマイチくんの職場は、ちょっと注意されるだけで特に制裁はありません(だって、激しく追求しすぎたら、いつか自分にも厳しい追求が回ってきますから)。
ちなみに、コンキチは学生時代にドクターコースの先輩に、「使った器具はすぐ(できるだけその日のうちに)洗え」ということを叩き込まれました。しかし、会社では「器具は暇なとき(最大1週間~1ヶ月は放置O.K.)に洗え」と教えられました。5S(整理、清掃、清潔、整頓、躾)を励行しろと宣う会社が5Sを否定する指導をするのです。正直笑えました。そもそも、上司がたまに実験することがあるのですが、使った器具は当然放置プレイです。コンキチはその器具が使いたいので(あと放置しっぱなしだと汚れが落ちにくくなるので)、「洗いますけど」というと、上司は「あー、自分でやる」と言ってまた放置プレイです(笑)。まあ、多くは結局コンキチが洗うことになるのですが.....
コンキチが居る職場の目標は「実験台の整理整頓」で毎年同じです。なかなか出来ないとか、難しいとか、永遠のテーマとかいってる人もいますが、要は「出来ない」のではなくて「(めんどくさいから)やらない」だけです。
幼少のころに親や学校の先生から「すぐ片付けなさい」と指導されたことをもう一度思い出した方が良いでしょう。

3) 安全ビデオの上映
→反復による刷り込みの有用性は認めますが、無味乾燥なビデオです。睡眠誘因に効果的です。不眠症の方はどうぞ。(因みにコンキチはパスしました。必須じゃないし) 。

4) 産業医とのメンタルヘルス相談
→鬱の相談なんか、産業医なんか、しかも社内でできませんよ。噂になったらイヤだし。しかも、産業医ってメンタルヘルス系の専門じゃないでしょ(きっと)。意味あるの?といった感じです。
etc.

以上、こんな感じです。

ちなみに、この運動は、

・主唱者/ 厚生労働省中央労働災害防止協会
・協賛者/ 建設業労働災害防止協会陸上貨物運送事業労働災害防止協会港湾貨物運送事業労働災害防止協会林業・木材製造業労働災害防止協会鉱業労働災害防止協会
・協力者/ 関係行政機関、地方公共団体、安全関係団体、全国安全会議、地方安全会議、労働組合、経営者団体
・実施者/ 各事業場

という感じになっていて、自主的な労働災害防止活動の推進というより、とりあえず世間様に向けた安全パフォーマンスのためにやっとけといった感じでしょうか(地味だけど)?そんな気がします。つまり、なんとなく整理・整頓して、安全に気を配っているフリをしとけってことですね。だって、安全って1週間やそこら安全活動を重点的にやりますって宣言してやるものじゃないでしょ?常に高い安全レベルを維持しなきゃいけない訳ですよ。ということは安全週間なんていう儀式(Ceremony)をやって満足していてるのはヌルすぎです。どうせ、すぐだれだれになるんだから。

まあ、安全は(建前上)企業活動における至上の金科玉条ですから。特にコンキチの従事する化学工業は、一歩間違えば大惨事(平たく言えば、爆発事故)が発生するので、口が裂けても対外的には、少しでも安全を疎かにする発言はできません。せいぜい自分が危険に巻き込まれないように気をつけましょうか。

今年の全国安全週間のポスターのモデルになっている井上和香が可愛いなと思うコンキチの戯言でした。

2006年7月5日水曜日

研究員のCSR

最近、コンキチの勤務する会社で、CSR(Corporate Social Responsibility)の啓蒙活動が行われるようになりました。

例えば、「顧客との電話対応」なんていうお題で、「CS(Consumer Satisfaction)を向上させるためにはどうすればいいいか?」とか。

親会社からの指示であることがミエミエです。こういう活動は、自発的に湧き出てこなければ、おべんちゃらでおわるだけだと思います。だって、親会社に言われてやるもんじゃないでしょ?こういうのは。でも、「活動してます」と親会社にアピールしなければならないので、形だけは取り繕っていくのでしょう。こういうのを「仏つくって魂いれず」というのかなと思いました。

そもそも、CSRなんていうのは、突然降って湧いたものではなくて、元来あったものを(格好いい)横文字に置き換えただけで、格別ありがたがることもないでしょう。

日本人が好きな、


会社は社会の公器


ってやつでしょう?

押し付けられたくだらないCSRなんてものはゴミ箱に捨ててしまって、我々は(化学工業に係る)研究員なんだから、研究員らしいCSRを追求すべきだと思います。

例えば、
1) Green Sustainable Chemistry(GSC)とか
→GSCは、化学工業のLOHASそのものズバリといった感じではないでしょうか?近代化学において、有害物質の流出を抑制することは社会的な義務です。各種法令による規制がありますが、企業が自発的により高度な規制を設けGSCを志向することこそがCSRなのだと思います。
GSCは、アセスメントが重要になるとともに、収率(Yield)や製造コスト(経済性)による評価のみならず、

a) Risk=Hazard×Exposure (特にオペレーターに対して)
b) E-factor(ratio in weight of byproducts/main products) (溶媒がメインターゲットか)
c) Atom efficiency (資源を有効に使う)

といった指標が重要になってきます。これらの環境指標を使うことで、プロセス全体のGreenさやSustainabilityを定量的に評価することが可能になるでしょう。しかも、プロセスの環境評価が容易になるとともに、簡単に導入できます。でも、コンキチの勤務する会社では、ISO14001を認証取得しているにも関わらず、上記評価尺度を使用する気配はNothingです。「収率が○○%UP↑」したとか「廃棄物が○○%削減できた」とか、「溶媒の使用量を減らした」なんてことは、(ISO対策として)単発的にジャブ程度にやっていますが、プロセス全体を定量的に評価・概観したり、環境指標を用いた継続的な管理なんてことはやりませんね(コンキチはめんどくさがり屋さんなので、上記提案は決していたしません)。

2) 画期的製品の開発(プロダクト・イノベーション)とか
→利便性の高い、画期的な製品は、人々の物理的・精神的営みを圧倒的に豊かにします。従来は不可能だったことが可能になるという、ある種魔法のような効果が期待できるでしょう。
例えば、元祖三種の神器(白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫)や3C(カラーテレビ・クーラー・カー)、そしてデジタル三種の神器(デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビ)、新三種の神器(食器洗い乾燥機、IHクッキングヒーター、生ゴミ処理機)のような画期的な製品の登場が庶民の暮らしを圧倒的に快適にしたことは想像に難くないでしょう(因みにコンキチ家ではDVDレコーダー、薄型テレビ、食器洗い乾燥機、IHクッキングヒーターはありませんが.....)。
化学界で言えば、薬とか農薬とかプラスチックとか(サーモダイナミック)液晶とかが画期的な製品の部類に入るんじゃないかと思います。医薬品は人々の健康を担保し、農薬は作物の育成を促し、プラスチックは世の中のあらゆるシーンで使われているし、目に優しいLCDはパソコンとか薄型テレビに使われてますね。コンシューマー指向のCSRですね。

3) (コモディティ)製品の圧倒的に安価(効率的)な製造プロセスの開発(プロセス・イノベーション)とか
→生産性の(圧倒的な)向上です。
例えば、庶民から愛されている1個100円の製品Aを1個50円で売っても同様の利鞘を稼げる製造プロセスを構築できたとします。すると、庶民の製品Aに対する購買力は倍に高まり、生活水準は実質向上します(50円分を他のことに使える)。とっても素晴らしい立派な社会貢献だとおもいませんか?。

4) あと、適正なルールに基づいて(反社会的行為をせずに)ガッツリ利益を出し続ける仕組みを作るとか
→とっても重要ですね!!!(とコンキチは思います。)利益こそが、企業をゴーイング・コンサーン足らしめるわけですから。税金(社会に還元)、配当(株主に還元)、内部留保(企業の活動を維持)の源泉は利益です。
そして、研究開発型の企業(研究員を雇っている企業)では、研究開発活動を通じて、画期的製品の開発をしたり、製品を圧倒的に安価(効率的)に作り出す製造プロセスの開発したりすることこそが、利益を生み出し続けるための仕組みなのです。製品が社会に受け入れられ(沢山売れて)、利益が生み出される(ガッポリ儲かる)のです。
(反社会的行為をせずに)ガッポリ金儲けをする企業は、税金もガッポリ払っていて、多くの公共インフラの整備のための源泉を世に供給している立派な会社なのです。

どうでしょう?

まあ、コンキチは現在勤務する会社で、既に終わっている存在なので、CSRを志向するよりも、マイペースで生きて行きます。

2006年7月2日日曜日

M:i:IIIに学ぶ研究員の心構え

昨日(7月1日、映画の日)、M:i:IIIを鑑賞してきました。ご存知、トム・クルーズ主演のスパイ映画の第3弾なわけですが、期待を裏切らない面白さで、コンキチは超満足でした。

主人公のイーサン・ハントは、IMF(Impossible Mission Force)の超腕っこきのエージェントで、絶対無理だろっていう任務を次々とこなしていきます(フィクションなんでなんでもありです)。時には超絶ピンチに陥ることもしばしばですが(アクション映画にピンチはつきものですから)、その都度不死鳥の様に復活を遂げ、大逆転劇を演じ、最終的には勝利を掴み取ります。

さて、何故彼は幾多に渡る過酷な任務を常に全うし、成功し続けることができるのでしょうか?

「主人公なんだから(最終的に)勝つのは当たり前じゃん」なんて身も蓋もないことを言ってはいけません。そこには成功に至る迄の重要なエッセンスが隠されているのです。そして、そのエッセンスはおそらあく研究員が研究活動に従事し、成果を導きだすサクセス・ストーリーにも通じるところがあるのです。

エッセンス1_努力
成功の陰には必ず努力が存在します。あまりに成功の光の部分が強すぎると、努力なんていうドロくさいものは見えなくなってしまいがちですが、「成功とは厳然たる努力の賜物」なのです!!!
例えば、イーサンは、人を欺く変装技術を身につけていますが、これは超緊張状況下(バレたら殺される)での強力な演技力が要求されます。生半可な鍛錬では身に付くものではないでしょう。圧倒的な体術は、気の遠くなるほどの研鑽と反復練習が無ければ、超緊張状況下のイザというときに力を発揮することは出来ないでしょう。銃器を扱うテクニックも同様です。さらに、読心術や多言語にも精通し、物理学にも深い造詣を持っています。メチャメチャ勉強しているハズです。こういった常日頃からの努力・研鑽が、実践でモノを言うのです(きっと)。但し、膨大な鍛錬の成果が発揮されるのは、ほんの僅かな時間でしかありません。そのため、「努力すんのはメンドクセーなあ」なんて思う人のいるかもしれませんが、努力無くして何も為し得ることはできません。
我々研究員も、不断の知の蓄積を怠らずに継続していくことによって、膨大な知が集積させます。その集積から、一握りの綺羅星たる成果が導きだされるのです。知の蓄積の無い者に、知価を創造することは決してできません。
不断の鍛錬を怠ったエージェントには死が訪れ、知の蓄積を怠った研究員は何の成果も出せずに仲間内から馬鹿にされるのです。

エッセンス2_信頼
人類の作り出した最も偉大な発明の一つが「分業」です(おそらく)。いくら超人的な人間であっても、個人で身につけらえる能力というのは限界があるし、一人で一度に出来るタスクも限られています。よって、それぞれの専門的な特殊技術をもつ複数の人間がタスク・フォースを組んで協同的にタスクに取り組むことにより、効率的・補完的にタスクを遂行することができ、スペシャリストのシナジーが発揮されることでしょう。M:i:IIIでも、イーサンをリーダーとするスペシャリストチームが、それぞれのメンバーの持つ一流のスキルを駆使してイーサンを的確にサポートして、不可能ミッションを完遂していきます。ただここで注意しておかなければならないことがあります。そこには強烈な「信頼」関係が存在しているということです。チーム内に信頼関係がなければ、自分に命運を他人に預けなければならない不可能ミッションにおいては、心に動揺が生まれ、心に隙ができます。隙が露になれば、そこを敵に突かれます。
研究活動においても、タスクチームのメンバー内で、信頼に足る能力・データ・人間性が十分に担保できなければ、ちゃんとやっている人のモチベーションが低下します。ついでに、信頼できないデータがプロジェクトの根幹部分に組み込まれてしまった暁には、目も当てられない状況に陥ることは火を見るより明らかでしょう。また、信頼できない上司の下では、部下は十分なモチベーションを維持することは困難になるでしょう。モチベーションの低下は業務効率の低下を意味します。
タスクフォース内に信頼関係を醸成できないエージェントには死が訪れ、信頼関係を構築することのできない研究チームは、業務効率が低下し、仕事が遅々として進まず、他部署から馬鹿にされるのです。

エッセンス3_精神
最後の最後まで絶対に諦めない精神。これが、任務必達成の必要条件です。「不撓不屈の精神」というヤツです。諦めたらそこでTHE ENDですが、諦めなければそこから道が開ける可能性はZEROではありません。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」という捨て身(自暴自棄ではありません)の精神が、死中に活を見いだすチャンスを作るのです。 要は信念と覚悟が重要だということです。
研究活動においてもこの精神は重要です。諦めることを知らない飽くなき探究心こそが、新たな発見を生み出す原動力となるのです。
諦めたエージェントには死が訪れ、諦めた研究員は何の成果も出すことができず、仲間内から馬鹿にされます。

勿論、間違った努力や無駄な努力は全く意味を成しませんし、人を見る目が無ければ、信頼しても裏切りの憂き目にあうこともあるでしょう。そして、最後まで諦めない精神を具備していたとしても必ず成果がえら得るとは限りません(自然科学に従事する者は、自然の法則には逆らえませんから)。

物事の是非を判断する的確な目を養うことも、努々忘れてはなりません。

以上、昨日まで、作中のIMFを「International Monetary Fund(国際通貨基金)」だと思っていたお馬鹿な二流大卒のコンキチの日記でした。