2008年8月16日土曜日

政治と平和

この時期になると、毎年毎年、脱•戦争を謳った番組が活況を呈します。で、そういった番組では、中学生とかが「戦争を起こしてはならない」とか「平和は素晴らしい」みたいな作文を朗読している映像を流して悦に入っている気がします。

はっきり言って、「戦争=暴力行為による殺人=悪」という図式で戦争を批判しているとしか思えない中学生の作文に何の説得力も感じることはできないのですが、そういう人間はコンキチだけでしょうか?だって、戦争は政治プロセスの一形態なのだから。平和と脱•戦争という一見すると耳触りのよいワードにより、皆思考停止している、そんな気がします。

よく、「戦争を無くさなければならない」なんて言う人がいますが、彼らは戦争が政治プロセスの一形態であるという現実を理解してそのような発言をしているのか?と疑問を感じます。


普通の人なら戦争は最も回避すべきものであるということに異論はないと思いますが(コンキチもこの点に関して異論はありません)。しかしながら、国家間の政治的議論•経済政策において話し合いだけではどうしても折り合いをつけることができず、しかも虐げられている(不公正)と十分に感じられる場合において、彼の国はどういった対応をすればよいのか↓

a) 政治的話し合いで解決するべきだから泣き寝入りする→不公正さを感じながらもおとなしくしている。

b) 政治的話し合いでは埒があかないので、実力行使する→武力行使(戦争)により公正さを取り戻そうとする


思想や信条が異なる国家間における政治的議論は必ずしも一つの結論に収斂するとは限りません。それは、隣国と我が国との関係を鑑みれば明白でしょう。で、議論の決裂によるうっぷんが臨海点に達っするものでなければ、まあお茶を濁す程度で済むかもしれません。しかし、議題がその国において決定的に重要なものであったとしたら、話し合い以外の何らかの手段(経済政策とか武力行使とか)に出ることも選択肢の一つとなり得るでしょう。


国家間の戦争に至るプロセスは子供のケンカと近しいものと思います。大人や組織間のイザコザだって、暴力行為に至ることはなくても(皆無とは言いません)、パワープレイによって相手を追いつめることはあるのではないでしょうか?



戦争とは政治プロセスにおける一手段である
戦争は政治的文脈の中で語られなければいけない



と改めてそう思います。


なので、戦争について語るならば、当該国の政治、そして自国の政治についても言及すべきでしょう。それから、国家の政治プロセスの根幹をなす選挙には多いに関心を払うべきと思います。少なくとも、選挙に参加していない有権者は「平和」とか「戦争」について口を挟む権利はないと思います。
see http://www.promised-factory.com/100years_after/house/turnout-abs.html


単に「平和」と「脱•戦争」を馬鹿の一つ覚えのように連呼しているだけでは白痴的と思います。



以上、二流大出のなんちゃって研究員の戯言でした。
(なので、軽く聞き流してください)

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