2007年9月17日月曜日

ポーター教授

「Harvard Business Review 2007年2月号」を読んでみました。特集は「戦略論の原点」ということで、

マイケル E. ポーター
ヘンリー・ミンツバーグ
H. イゴール・アンゾフ
大前研一
アルフレッド D. チャンドラー
C. K. プラハッット & ゲイリー・ハメル

といった経営学の巨匠(と言われる人)達の(過去の)論文が掲載されています。

コンキチの個人的な感想ですが、ポーター教授の論文の切れ味鋭い分析力が一際光っていたと思いました。掲載されていたポーター教授の2論文は、それぞれ、「競争の戦略」と「競争優位の戦略」の中の一章で、上記2冊を未だ未読のコンキチにはいい足慣らしになりました(特に「競争の戦略」は購入済みだがまだ手をつけていない)。

特に「競争の戦略」の第1章である「5つの要因が競争を支配する」というタイトルの論文は、有名なファイブ・フォース・モデルの解説ですね。

5つの競争要因とは↓

1) 新規参入の脅威
新規参入者を撃退できるかは、参入障壁の高さに依存し、
(1) 規模の経済(大掛かりな参入、コスト面での不利の我慢)
(2) ブランド(広告宣伝、顧客サービス、業界No. 1のポジション、製品の差別化)
(3) 資金ニーズ(巨額な投資)
(4) コスト面の不利(額主曲線、経験曲線、独占的技術、etc.)
(5) 流通チャネルへのアクセス
(6) 政府の政策(規制)
といった参入障壁があると述べられています。

2) サプライヤーの交渉力
(1) 少数のサプライヤーが供給を支配
(2) スイッチングコスト
(3) 競合する製品の有無
(4) 川下統合の可能性
(5) 顧客の重要性

3) 顧客の交渉力
(1) 顧客数。購入量。
(2) コモディティ製品かスペシャリティ製品か
(3) 顧客の価格感度(顧客企業の製品中に占めるコストの割合)
(4) 顧客企業製品に与えるインパクト
(5) 川下統合の可能性
(6) 消費者の購買意思決定に影響を及ぼせるか?

4) 代替製品や代替サービスの脅威
(1) コスト・パフォーマンス大の代替製品
(2) 収益性の高い産業が生産している

5) 産業内のポジション争い
競合企業同士の競争で、価格競争、新製品の上市、宣伝といった戦術でポジションが争われる。
(1) ライバルの多さ
(2) 産業の成長率が低い→シェア争い
(3) コモディティ産業(スイッチング・コストを上昇させることができない)
(4) 固定費が高い、製品が陳腐化しやすい→価格引下げのインセンティブが生じやすい。
(5) 生産能力が大規模に増強される→産業内の需給バランスを崩す
(6) 撤退障壁が高い→健全な競合企業の収益性も落ちる
etc.

です。

このファイブ・フォース・モデルは企業のビジネスモデルを分析するのに強力なパワーを発揮すると思います。

あと、買ったけどまだ手つかずの「競争の戦略」も早々に読了したいです。

2007年9月16日日曜日

Dielectric Controlled Resolution

最近、久しぶりに光学分割(Optical Resolution)に関する論文を読んでみました(一応、コンキチの学生時代の専門は光学分割です)。

で、気が付いたら新しい光学分割手法が開発されていました。開発した研究期間は光学分割の雄「山川薬品工業」です。

新しく開発された手法は、DCR (Dielectric Contrlled Resolution)という名前で、まあ、手法的にはジアステレオマー塩法(diastereomeric salt formation method)と同様の操作なのですが、分割剤(resolving agent)として、一方のエナンンチオマー(enantiomer)のみ使用で、被分割剤の両エナンチオマーを調製可能という点がとってもユニークと思います。

再結晶溶媒の比誘電率をコントロールすることによって、擬多形結晶の形成が制御され、難溶性の塩として析出してくるジアステレオマー塩の種類が溶媒の比誘電率のレンジによって変わるというものです。

この手法はあらゆるケースに適用できるかといったら、全くそんなことはなく、分割剤と被分割剤の立体中心周りがリジッドで、コンホーメーションがフレキシブルに変化し難いものではDCRは起こらないようです。

コンキチの学生時代のい研究でも、分割効率に対する溶媒効果が顕著にでていた例がけっこうあったので、そのうちデータを掘り起こして、溶媒の比誘電率との関係をリサーチしてみようかと思います。

2007年9月5日水曜日

バカだ大学の憂鬱

スレッドというかなり俗っぽい雑誌をちょっと立ち読みしてみました。

読んだ記事は、『「最底辺大学」の憂鬱』という記事で、偏差値44以下の私立大学の学生へのインタビュー記事がメイン。AO入試で半数の学生を採る大学もあるそうで、軽く驚きました。

特に興味深かったのが、東大生と偏差値44以下大生との対談で、両者の認識の隔たりに多いに驚愕させられました。

例えば、将来の就職先についての話題で(以下、コンキチの記憶力の範囲で再現。。かなり適当。)


東大生 「官僚になって国を動かす仕事をやりたい」

偏差値44以下大生 「朝9時から夕方5時の役場仕事はいやだな」


って、東大生が言ってるのは高級官僚のことですから!!!!!奴らは事務次官とか狙ってんだよ!!!!!


偏差値44以下大生 「オンリーワンの仕事がいいよね」

って、オンリーワンってその分野ではNo. 1ですから!!!!!



偏差値44以下大生 「広告業界に興味があって、電○とかいいな」(多分、電通だと思う)

東大生 「難しいと思うよ」


電○は絶対むりでしょう!!!!!

絶対無理と言わない東大生の親心に乾杯です!!!!!




偏差値44以下大生 「まだ卒業まで1年以上あるから、頑張ればなんとかなると思うよ。学力だけじゃなく人間力も求められるから。」


って、あんた高校3年間の成果が偏差値44以下大でしょ。

ついでに、あんたの乙女チックな楽観主義に人間力があるとは到底思えません。



偏差値44以下大生って、なんて夢見がちなのかなと思ってしまいました(っていうかコンキチもそんなに賢くない大学卒だからあんまり人のことは言えないが…..)。

あと、東大生が「勉強は趣味的なもの」だという発言に対して、

偏差値44以下大生 「せっかく大学に入ったんだから、勉強ばっかりは嫌だな。サークルとか趣味とか楽しいこともしたい」

的な発言してましたが、


大学って勉強するところですから!!!!!

人生は日々勉強することだし!!!!!

っていうか、偏差値44以下大の時点であんたこれまで全然勉強してないでしょ!!!!!って、あなた大して勉強する気ないでしょ(意思が弱そう)!!!!!



というツッコミを入れてあげたくなりました。

はっきり言ってこの対談、作ってるんですよねえ。もし、実話だったら偏差値44以下大生って現状認識力がなさすぎですよ。まるでおとぎの国のお姫さま・王子さまくらい楽観的というか、なんというか…..

正直言って、こんなのが大学生かと思うと、背筋が薄ら寒くなってきますね。
まあ、少子化のあおりを受けて、ダメな大学は自然淘汰されていくのでしょうが.....

人のふり見て我がふり直せですね。

2007年9月4日火曜日

公共心の欠落

コンキチが毎日Watchingしている(但し、更新頻度は少ない)ブログで、「社会規範の崩壊」について論じている記事があり、それにちょっとコメントしてみたのですが、せっかくなので、このブログに転載しておこうと思います。

何故「昔であれば信じられない怖い事件」が、近年、ニュースを賑わせているか?

コンキチ(私)が勤務する会社(ケミカル・カンパニー)では、ご多分に漏れず5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)活動をスローガンに掲げていますが、「躾」がなってないので、(女性でも)靴をきちんとそろえて脱ぐ人をてんで見かけません(コンキチが幼少の頃は、靴をちゃんと揃えて脱ぎなさいときつく躾られたものですが…..)。(公共心に基づいて)靴を揃えて皆ですっきり気持ちよくなるよりも、「そんなの面倒くせーんだよ。やりたきゃやれば。そんなのチクチク言うヤツはちょっと嫌な感じ」的な雰囲気が社内に蔓延している感じがして、違和感を覚えます。実際、色々な社内キャンペーンは、時間とともに風化して、空虚なスローガンと化すことが多々あります。「会社=公」ではありませんが、自己犠牲というかそんな精神の希薄化を日々感じています。

話が脱線しましたが、「公」を尊ぶ精神が欠落し、「自分さえ良ければいいや」的な発想が世間に広がっているのは、世の中が(物質的に)豊かになっていることと関連しているのではないかとコンキチは考えています。

思うに、

1)    豊かになって物質的に欲しいものが簡便に手に入るようになり、忍耐(我慢)の精神が欠落し、心のブレーキを失った。

2)    経済的に豊かになって「生きること」が容易になり、人々はより高次の欲求を求めるようになった。ただ、自己実現欲求は、より根源的な物質的欲求よりも達成するのが困難。

3)    「生きること」に一生懸命になる必要がなくなり、けっこう暇になった。


その結果、

自己の在りたい姿と現実とのギャップに「俺はこんなはずじゃないんだ」的な考えが頭の中を占める。さらに、暇な時間をもてあましてしまう。そのうち、忍耐が欠落した精神が耐えられなくなり、自分を制御できなくなり「自分さえよければいいや」的な行動をとる(「自分さえよければいいや」的な行動が自己実現の代償行為となる)。

というようなことではないかと勝手に思っています。

豊かになっていく過程で、ある程度(どの程度かは想像不能)のモラルの崩壊というのはつきものなのではないかと思います。

「隆盛」により豊かになった社会が平家物語のように「衰退」に向かっていくのが必定であるとすれば、いささか暗澹たる気持ちになります。今に生きる者として、今後の「衰退」がちょっとした「揺り戻し」であればいいなと思うのは楽観が過ぎるでしょうか?