2007年9月4日火曜日

公共心の欠落

コンキチが毎日Watchingしている(但し、更新頻度は少ない)ブログで、「社会規範の崩壊」について論じている記事があり、それにちょっとコメントしてみたのですが、せっかくなので、このブログに転載しておこうと思います。

何故「昔であれば信じられない怖い事件」が、近年、ニュースを賑わせているか?

コンキチ(私)が勤務する会社(ケミカル・カンパニー)では、ご多分に漏れず5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)活動をスローガンに掲げていますが、「躾」がなってないので、(女性でも)靴をきちんとそろえて脱ぐ人をてんで見かけません(コンキチが幼少の頃は、靴をちゃんと揃えて脱ぎなさいときつく躾られたものですが…..)。(公共心に基づいて)靴を揃えて皆ですっきり気持ちよくなるよりも、「そんなの面倒くせーんだよ。やりたきゃやれば。そんなのチクチク言うヤツはちょっと嫌な感じ」的な雰囲気が社内に蔓延している感じがして、違和感を覚えます。実際、色々な社内キャンペーンは、時間とともに風化して、空虚なスローガンと化すことが多々あります。「会社=公」ではありませんが、自己犠牲というかそんな精神の希薄化を日々感じています。

話が脱線しましたが、「公」を尊ぶ精神が欠落し、「自分さえ良ければいいや」的な発想が世間に広がっているのは、世の中が(物質的に)豊かになっていることと関連しているのではないかとコンキチは考えています。

思うに、

1)    豊かになって物質的に欲しいものが簡便に手に入るようになり、忍耐(我慢)の精神が欠落し、心のブレーキを失った。

2)    経済的に豊かになって「生きること」が容易になり、人々はより高次の欲求を求めるようになった。ただ、自己実現欲求は、より根源的な物質的欲求よりも達成するのが困難。

3)    「生きること」に一生懸命になる必要がなくなり、けっこう暇になった。


その結果、

自己の在りたい姿と現実とのギャップに「俺はこんなはずじゃないんだ」的な考えが頭の中を占める。さらに、暇な時間をもてあましてしまう。そのうち、忍耐が欠落した精神が耐えられなくなり、自分を制御できなくなり「自分さえよければいいや」的な行動をとる(「自分さえよければいいや」的な行動が自己実現の代償行為となる)。

というようなことではないかと勝手に思っています。

豊かになっていく過程で、ある程度(どの程度かは想像不能)のモラルの崩壊というのはつきものなのではないかと思います。

「隆盛」により豊かになった社会が平家物語のように「衰退」に向かっていくのが必定であるとすれば、いささか暗澹たる気持ちになります。今に生きる者として、今後の「衰退」がちょっとした「揺り戻し」であればいいなと思うのは楽観が過ぎるでしょうか?

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