E1 (甲)で、旗風、速吸、藤浪×2、択捉
E2 (丙)で、松輪、沖波
E3 (乙)で、Luigi Torelli、谷風、三隈、国後、大鯨
E4 (丙)で、Richelieu、Warspite、清霜
E5 (丙)で、松風、谷風
E6 (丙)で、Z1、Z3
E7 (丙)で、赤城、秋雲、江風、早霜
のドロップきました。豊漁ですが全艦改修素材か廃棄です(無課金なもので)。
閑話休題
先日遅ればせながら、羽田圭介の芥川賞受賞作「スクラップ・アンド・ビルド」を読了しました(「成功者K」も読みました)。
ボクがこの作品から受けた最も強いインパクトは、
"老人の生への執着"
です。
肉体的に衰弱して惨めな状況となり、自身が最早無価値な存在であると嘯き、「自分など死んだ方がいい」なんて周囲に漏らしていたとしても、内心では「まだだま生きたい。死にたくない。」というお爺ちゃんの心情(エゴ)が力強く描かれていたと思います。
そして、本書ではボクにとって非常に興味深いこんな台詞が登場します↓
「.....過剰な足し算の介護で動きを奪って、ぜんぶいっぺんに弱らせることだ。使わない機能は衰えるから。要介護三を五にする介護だよ。バリアフリーからバリア有りにする最近の流行とは逆行するけど」
浅学のためか、"バリアフリーからバリア有りにするのが最近の介護のトレンド"という話をボクは聞いたことがありませんが、後期高齢者のお爺ちゃん・お婆ちゃんが公園の遊具で体力作りに励んでいるといった報道を目にしたことがありますし、実際そうした光景を通勤途上で通りかかる公園で目にしたことは何回もあります。まあ、仮に"バリア有り"が介護のトレンドだとして、そんなの大々的に宣伝するバカはいないですよね。だって、バリアフリー化っていう折角のビジネスチャンスをフイにしてしまいますから。
かなり感覚的な話になるんですが、健康寿命を長く保つためには、やっぱ体動かさないと(運動しないと)ダメですよね。使わない機能は衰えるから。ただでせさえ加齢によって運動機能が劣化していくのに、バリアフリー化によって日常生活における僅かな運動機会さえも奪ってしまうのは、まさに過剰な機能なのではないでしょうか?
何年か前にボクの住んでる集合住宅(日本では恥ずかし気もなくマンションと呼称される)の大規模修繕があったんですが、隙あらばバリアフリー化をやたらとねじ込んでくる年配の人がいたんですが、個人的にはとても愚かしく思えました。ボクが思うに、バリアフリーっていうのは障害者のためのものであって、高齢者のためのものではないんですよね。幼少の時分、ボクは築100年超の茅葺き屋根で薪ストーブありの古い家に住んでました。座敷は土間から数十センチの高さにあって(小学生の腰くらいの高さ?)、88歳で亡くなったひいおばあさんも普通に生活していました。痴呆だったけど、最期まで体は丈夫でした(ある意味、タチが悪いって?)。
それから、街に繰り出すと至る所に"非バリアフリー地帯"があるじゃないですか。自分の家だけバリアフリーにして、バリアフリーに慣れきってしまったら、いざ外に出かけたとき危険なんじゃね?ひきこもるわけ?
バリアフリーっていうのは、真綿で首を締めるように老人の健康を奪っていく装置なんだろうと思います。
以上、二流大出のテクニシャン (研究補助員)の読書感想文でした。
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